キャリア

「在り方」を考える時のこと。

東日本大震災を機に改めて考える、40代女性・子育てしながらの働き方

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東日本大震災から8年。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。

3.11
あの日、当時2歳半の娘は自宅近くの保育園に、私と夫はそれぞれ都内の勤め先にいました。
保育園からはお迎えの要請があり、義父母は住まいが遠いため迎えをお願いすることもできず、何としても自力で迎えにいかなければならない状況でした。

閉まりかけたお店に駆け込んで運動靴とカイロを買い、コンビニの棚に残っていたほんの少しのお菓子と水を買って、自宅までひたすら歩きました。途中自転車を1台購入することができた(写真がその時のものです)のは、幸運でした。車と人との渋滞の中をひたすら進み、寒い風が吹き抜ける橋を渡り、液状化の泥にまみれながら、停電で暗くなった町を通り抜け、6時間半かけてようやく娘の元へ。子どもの顔を見られたときのあの瞬間は今でも忘れられません。そして、保育園でずっと娘のそばについていてくださった保育士の先生には、今でも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

そんな東日本大震災は、私の働き方を見直すきっかけとなりました。

震災前、約1年半の育児休暇期間を終えて復職してからの1年間、多分、私はずっと悩んでいたのだと思います。


保育園に子どもを預けて働くことに対する、双方の両親からの「子どもがかわいそう」という言葉。
朝保育園で泣きながらなかなか私から離れない娘(結果、ほぼ毎日会社に遅刻。朝の登園時間を早めてみても、やはり遅刻。)。
時短勤務をしているうえに、突然子どもの病欠で休まなければならないなど、職場へ迷惑・負担をかけていることへの後ろめたさ。
時短勤務でも仕事量は周りと同量・・・で昼食休憩時間を削る日々。
「子どもは母親にいてほしいに決まっているだろ」という夫の一言で、子どもの病欠時は私が仕事を休むため、年休はすぐに足りなくなり欠勤や減給扱い。
仕事内容も内勤業務のみとなり、以前ほどのやりがいも感じられず、収入も復職前に比べてガクンと減り・・・。
いろいろ辛くなって、今の業務内容なら会社までこなくても在宅でできるのでは?と思い、人事の方に相談してみると、
「あなたは働く必要がないから(ご主人の収入で生活できているから)そんなことを言う(考える)のですね?」と突き放される始末。


家事と仕事と子どものお世話に追われて朝から晩まで精一杯だった日々に、
モヤモヤした気持ちのまま、私は本当にこの仕事を続けたいのか?自分はどうしたいのだろう?、とずっと悩んでいたように思います。

あの震災の出来事をきっかけに、自分のこれからをひたすら考えました。そして、震災から9ヶ月後、2人目の妊娠を機に退社することに決めました。福利厚生とか、厚生年金とか、退職金とか、就職活動の時に重視していたものは全て手放しました。そこにしがみつくのをやめて、自分で何とかすることにする!
そして、自分が楽しいと感じられること、私だからできること、を少しずつかたちにしていこう、と、fatettoを始めました。

在宅勤務になり、満員電車での通勤から開放され、服装も時間の使い方も自由になりました。
朝の1分1秒を争って子どもを急かすこともなくなり、夜は早く寝かしつけてあげられて、子どもとの時間にも気持ちの余裕を持てるようになりました。
雨の予報に洗濯物を気にしなくてもよく、晴れの日にはお布団もふかふかに干して・・・
日々いろんなところで、いろんな幸せを感じられるようになりました。

コーヒーを淹れて、音楽をかけながらイラストを描いていた私に、学校から帰ってきた娘が、

「ママが一番ラクチンで、楽しそう。いいなぁ!」

一瞬、「え?お母さんだって、◎△$♪×¥●?&%#!!」って、「こんなにいろいろ頑張ってる」アピールをしそうになったけど、ふと考えたら、そう見られているというのはいいことだな、と思い直して・・・

今のこの瞬間を大事に、これからも過ごしていきたいと思います。

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